「空中ブランコ」奥田英朗(文春文庫)

伊良部総合病院の精神科の医師、伊良部一郎。まずもって奇人でとんでもなお医者さんである。その病院に、サーカス団員の男がやってきて、空中ブランコが飛べなくなったと訴える。お医者さんは、とりあえず太~い注射を一本して、終わり。それどころか団員に自分もサーカスに出させろ、空中ブランコを飛ばせてくれと、無茶苦茶な要求。団員のイップスは良くならず、逆に医者は毎日のようにサーカスの練習に参加して、とスラップスティック風のコメディになる。

5編の短編集で、どの作品も特殊な仕事をする主人公がいて、伊良部がその担当医になってかかわってくるという形式。飛べない空中ブランコ乗り、先端恐怖症になったヤクザ、強迫神経症のかつての同僚の神経科医、一塁に投げられなくなったプロ野球のサード、不安神経症の女性作家。どれも癖の強い人たちが、さらに圧巻の変人医師伊良部との出会いで、呆れ、馬鹿にし、でも頼らざるを得ず、ついには心癒されていくストーリー。全編がドタバタコメディでありながら、どこか心を病む人たちに、優しい手を差し伸べている。なかなか素敵な読後感の本だった。
2004年の直木賞作品。以下に選評を添付。

奥田英朗男44歳×各選考委員 作家の群像へ
『空中ブランコ』
連作5篇 434
年齢/枚数の説明
見方・注意点
選考委員評価行数評言
平岩弓枝
女72歳
29「(引用者注:「イン・ザ・プール」が候補作のとき)どういうわけか票がまとまらず、受賞に至らなかったのを残念に思う気持がずっと尾を引いていた。」「作者が苦労なしにこの五篇を書いたとは考えていないが、よくも悪くも現代の最前線で脚光を浴びている人間をひっぱり出して伊良部先生の前へおいたのは作者の凄腕であり、しかも成功している。」
津本陽
男75歳
19「最初の表題作からおもしろかった。ひきこまれたといってよい。」「作品の要所にするどい針のような表現があって、それがこちらの感覚を刺してくる。」「ユーモラスな主人公を動かしてゆく愉快なともいえる作品であるのに、この切実感と迫力はどこから出てくるのだろうかと思った。受賞にふさわしい成功作である。」
田辺聖子
女76歳
34「決選投票では『邂逅の森』にほんの少し差がついたが、しかしこの作品も早い段階で高点を得、甲乙つけがたしということで二作受賞となった。」「ユーモア小説は、文体が緊まっていないと効力を失うが、その点、的確で硬質の、そっけない文体がまことに適切、ユーモアが際立ってよかった。」
宮城谷昌光
男59歳
34「私のなかでは「イン・ザ・プール」も「マドンナ」も、奥田英朗氏の作品は、直木賞を受賞するにふさわしいものであったので、今回、「空中ブランコ」が候補作品として眼前にあらわれたとき、――まだ奥田氏は受賞していなかったのか。と、倦怠をともなったおどろきをおぼえた。」「(引用者注:「イン・ザ・プール」より)評価が漸進していたので、ほっとした。」
阿刀田高
男69歳
23「たまらなくおかしい短編連作集だ。と同時にユーモア小説を書くむつかしさが随所に見え隠れしている。」「(引用者注:「空中ブランコ」と「女流作家」は)笑いながらも人生を響きあうところがあって優れていると思ったが、ほかの委員からは「そういう小賢しさはむしろうるさい」という指摘もあり、つくづく、――笑いの文学は厄介だな――と考えた。」
渡辺淳一
男70歳
25「前作のドタバタ的なくさい部分が抜けて、内容も多彩になり、安心して読めた。」「欲をいえば、名探偵をもってしても解決しないような病気が登場すると、さらに小説の深味がでただろう。」
林真理子
女50歳
26「この方のユーモアの才能というのは全くすごい。一見無造作なようでいて、緻密な計算がなされている。」「女性作家の自意識過剰さは、私自身の姿を見ているようだ。むっとする場面もあったが、やはりおかしくてたまらない。」「作者の力量にひたすら感心するばかりだ。」
北方謙三
男56歳
19「絶品である。前作と較べて、精神科医が名医に成長していて、荒唐無稽の中から顔を出す、微妙な暗黒性に欠けると思った。この医師の成長が、常識性のリアリズムへの後退というふうにも私には読めて、そこが第一に推すのをためらう要因になった。」「私が第二に評価していた『空中ブランコ』が賞に入ってくることには、異議はなく、むしろ歓迎であった。」
五木寛之
男71歳
26「受賞の結果に異存はない。」「文句なしにおもしろい連作である。」「問題は人間の内面世界は、もっと奇怪で難解なものではないか、と、ふと感じさせられる点だ。」
井上ひさし
男69歳
38「物語構造そのものがすばらしい発明であるが、今回、作者はこの構造に絢爛たる笑いの花を満開に咲かせた。とりわけ、「ハリネズミ」と「義父のヅラ」には、さんざん笑ったあとに人生の真実にふれたような感動をおぼえ、前作同様に強く推した。」


 

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