「天皇への敗北」国分功一朗(新潮新書) 貴重な一冊。

改憲論議が盛んな折、日本国憲法について、その成り立ちとなかなか世界でもまれな戦争放棄に関する9条のことなど、独自な特質について学んでみるのもいいのでは。よそから回ってきた本で、自分が選んだものじゃないのだが、このように自分からは買わない借りない本などが、意外性もあり、面白くよめたりもするのであった。2026年4月20日発行の出来立てほやほやの本です。
まずは、このタイトル「天皇への敗北」について。2012年以降に、安倍政権が盛んに改憲論議を起こし、それが簡単でないとみるや、閣議決定なるものを連発しながら強引に「解釈改憲」を進めていったのは記憶に新しいところ。集団的自衛権などが確立していった時期である。さらに自民政権は続き、安保法制にしても、武器輸出関連法案の成立にしても、特定秘密に関する人権とプライバシーの制限についても、とにかく選挙での勝利を盾に「やりたい放題」が続いているわけである。
当時、2014年だったか明仁天皇が、「憲法を守る」趣旨の発言をし、安倍政権にくぎを刺したこと(と一般的にみられた出来事)があった。国分さんは、これを念頭において、左派、リベラルが負け続けた戦いにおいて、天皇の護憲発言によってかろうじて、護憲派が助けられてきたことを指摘し、これは天皇制を温存させたという問題点を指摘してきた左派側が逆に天皇によって助けられるなど、結局はお前たちは天皇に負けたのではないのか、という意味で、このタイトルとしたわけである(だいぶはしょりすぎたが)。

ところで、このリベラルの人は誰を想定して書いているのか、という疑問があるわけで、自分などは内田樹のブログなどをよく読んでいたので、内田が現上皇と現天皇にたいして、その憲法へのスタンスに好感を持っていることを知っているから、内田さんのことなのかなと思った。ちょっと待ってという気持ちも起こる。内田が、天皇の護憲発言をもって、右派、保守派とようやく対抗できる、天皇の力を利用しようとか考えるはずがない。それなら確かに「天皇への敗北」だけど、さすがにそれは違うんじゃないかと思う。また、内田たちだけがリベラル本体であるはずもなく、従来から左翼系の人、リベラルの人、いろいろ天皇制について、考え方が違うのでは、と思った次第。日本全体の右派保守派に対抗する人、リベラルな人がみんな「天皇への敗北」をしたわけじゃない。天皇と憲法について意見が同じだ、という発言をしたら、それは天皇への敗北か、とはならない、ということ。当たり前だが。
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ここでAIに聞いてみたら、たとえば内田ではなく、柄谷行人などが挙げられていた。マイクロソフト系のcopilot では:
柄谷行人(思想家) 天皇制と立憲主義の関係を論じ、天皇が立憲主義を守る構造を肯定的に分析したため、 「天皇に依存するリベラルの理論的支柱」と見なされることがある。

グーグルクロームのジェミニでは例えば以下の三人:
佐藤章(ジャーナリスト): 朝日新聞の「論座」などで、上皇陛下の歴史認識と安倍政権のそれとの間には「深い逆断層(確執)」があるとし、安倍政権を批判する文脈で上皇陛下のスタンスを論じました。
古賀茂明(元経産官僚): 安倍政権が新元号発表などを「天皇の政治利用」にしていると批判しつつ、同時にリベラル・野党側がその動きに十分対抗できていないと指摘しました。
海外メディアの特派員: 仏紙「ル・モンド」などは、天皇の生前退位の意向を「平和主義を守るための、安倍首相に対する無言の抵抗」と報じ、これに同調するリベラルな日本の知識人の声を反映させました

いずれにせよ、天皇の「おことば」をして、天皇は護憲の立場で、安部一味とは違うという言説は、まあある意味よくわかるもので、逆にそれを右派に批判されるというのはわからなくもない。今だけ天皇かよって言われたりするかも。ただし、護憲派というのはみんなが天皇制を否定しているわけでもないし、みんなが肯定しているわけでもない。いろんなスタンスがあるし、思惑もまた。「天皇への敗北」というキャッチーな言葉はなかなか罪深い感じがあるのは確か。
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さて、「天皇への敗北」のテーマはは第一章、第二章だけの話で、三章以降は、加藤典洋の「敗戦後論」や中野重治の多くの著作とその転向について、さらに中野に対峙した江藤淳の視点などが、次々繰り出されていくのだが、こちらは、けっこう実証的で論点がしっかりしている。「敗戦後論」については、いくつか有名な論争があって、左右両派から批判を受けた書物だが、戦争について日本人の被害者意識とアジア人への加害者としての立場をうまく止揚できなかったことで、「ねじれ」が生じていて、いつまでも戦後が終わらない「精神状態」にあると指摘している。加藤はそこから、まず日本人兵士と日本人の死者をきちんと祀り、そのあとでアジアの人々への謝罪が改めて始まるべきだという意見で、これについて、左右どちらからも批判を受けたわけである。
国分もまたこれを批判する立場だが、それでも加藤の視点は極めて重要だと評価をしている。中野重治にしても、やや晦渋な内面吐露の部分で、江藤淳はかなり誤読をしているのではないか、中野こそ日本人の戦後の曖昧さとか不真面目さを一番嫌った人間だったのではないかと評価をくだしている。中野の小説をいくつも引用しながら、その戦後の在り方、憲法の制定の仕方の疑問などについて、中野の慧眼を高く評価している。

本文中一番納得したのは、立憲主義と民主主義の違いについて。国分さんはこんな例をあげている。仮に国民投票をして、人種差別を合法として決定した場合、それは「民主的な決め方」であったとしても、立憲主義の立場からは否定されなければならない。立憲主義は絶対王政などに対抗するものであると同時に、民主主義の横暴、多数決だからという暴走にも対抗するものとなるはず、という憲法学者の考えを紹介している。これはとても納得。

この本は、いわゆる憲法論議の基本になるような、土台的な本で、多くの人に読んでほしいところ。でも、今の高市政権と日本維新の会が進めようとしている「改憲」は、もっと低レベルの、カルト的理念に幻惑され、さらに改憲ビジネス的な私欲に満ちたものでしかないので、こういう「高尚」な話だけしていると、アッという言う間に流されてしまう。政権側は、要は数を集めればいいので、SNSを駆使して、国民を誘導していくのは目に見えているからね。高市は過去に「自分が生まれていないような戦争について、自分にはなんの責任もない」と国会でだかどこかで、述べた人なので、「歴史に学ぶ」ことを最初から拒否している「反知性」の輩であるわけです。
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copilotで今調べたら以下の通り
1995年3月16日 衆議院 外務委員会  で、河野洋平外相への質疑の中で、高市氏は次の趣旨の発言をしています:
「私は当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」
この発言は、当時の栗山駐米大使が「日本国民全体が反省すべき」と述べたことに対し、
“国民全体の反省を当然視するのはおかしい”という文脈で述べられたものです。
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これ以上かくと、頭がかっかしてきちゃうので、この辺でね。

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