『漂砂のうたう』木内昇(集英社) 「ばけばけ」と「べらぼう」の世界も…

 2010年下半期の直木賞作品。木内さんの小説を読むのは初めてで、これは下の新聞評で新刊の『雪夢往来』が今年の大佛次郎賞をとった記事で、この作家のことを知ったから。図書館ではまだ『雪夢』は入っていないのでとりあえずこちらを借りた次第。ちなみに、雪夢では、江戸期の越後の商人鈴木牧之が書いた名著『北越雪譜』が世に出るまでの物語。「べらぼう」の蔦屋重三郎とか山東京伝とか曲亭馬琴などが出てくる話のようで、早く読みたい。

     



『漂砂のうたう』は明治維新直後の東京根津遊郭を舞台に、士族崩れの定九郎が遊郭のある見世の立番となって、やりきれない屈折した日々を送る話。見世一番の花魁小野菊、定九郎の先輩の龍造、年若い口の悪い嘉吉、噺家の弟子のポン太など、わき役の一人一人がなかなか際立つ個性で、この時代の廃れゆく遊郭の姿が浮かび上がってくる。
一気読み。後半は特に花魁がどうなるのか、それを知りたくて休まず読み切った感じ。すかっと爽快タイプの話ではないが、一気に読ませる筆力はさすが。

物語は、小野菊を中心に進み、それぞれの思惑でそれぞれが最後の事件に巻き込まれていくという流れ。自由民権運動の話、西南戦争の話など噂で聞く程度のことで日常にはかかわってこないけれど、それでも時代はゆっくりと動いていて、その動きに取り残された人たちの焦りとか諦めとかも全体の背景に広がっている。
個々の人を深く描いた小説ではない。この時代の人の姿を覚めた視点で広く見渡しているような語り口。主人公の定九郎にしても、読者から見て共感を覚えるということもなく、魅力的に描かれてもいない。新しい時代に、遊郭という底辺で蠢く古い人たちの、それでもどうしようもなく生きている人たちの姿が描かれている。

明治初期の廓の話、ここまで資料を駆使して調べ上げ、しかもそれをごく一部の背景にしか使わずに市井の人の人間ドラマを描いた力量とその覚悟(もったいないとか思わない)がなかなかなのである。ちなみに筆者は昇(のぼり)さんで女性です。
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NHKの朝ドラ「ばけばけ」で描かれる明治維新後の士族の没落と結構かぶるところもあって、特に武士の家系の次男三男の悲哀とか、ウサギが投機対象になってすぐに重課税され一気に大損をする場面とか、背景的に描かれるものが重なっている。また廓街のしきたり、いいまわし、役職など大河ドラマの「べらぼう」そのまま。見世の花形花魁をめぐるお話も。小説では円朝の怪談話が裏のストーリーとなっているのだが、廓と寄席と大衆文化を取り扱っているところも共通していて、興味深い。



木内昇女43歳×各選考委員 作家の群像へ
『漂砂のうたう』
長篇 500
年齢/枚数の説明
見方・注意点
選考委員評価行数評言
伊集院静
男60歳
37「視点のたしかさと胆の座り方は作者の筆力とともに今後、受賞にかなう作品を生み出してくれるはずだ。木内さんにしかないものが明白にある。一点気になる点を挙げると、人間の行動を理屈でおさめて済ませるところが感じられた。」
林真理子
女56歳
18「群を抜いてよかった。明治の二流どころの遊郭という設定もさることながら、抑制のきいた端整な文章が見事であった。」「しかし武家に育った前歴が、それほどわからないものかというところに多少ひっかかった。」
阿刀田高
男76歳
36「周到な文章で綴られている。けれんもあるが、この冒険は、よりよい文章へと道を拓いていくだろう。」「圓朝の卓越した話芸が速記術の普及に乗って大衆に広がったのは史実であり、ヒロイン小野菊の末尾近くのせりふは、この先の展開を暗示して、おもしろい。作者の企みは深いのだ。」
宮部みゆき
女50歳
29「開化もので遊里ものという二段重ねの高いハードルに挑み、「あ、ここで飛び越えたな」という揺れを一切感じさせず、見事にクリアしている秀作です。実は私はこの二つの素材が苦手で、読み始めた時には不安だったのですが、すぐ引き込まれて夢中になりました。」
桐野夏生
女59歳
25「不思議な小説だ。」「登場人物の誰もが、水底の砂のように流れにたゆとうて動こうとはしない。その閉塞感はよく描けている。」「それ故か、定九郎程度の男にどうして、落語の世界、つまり虚構が表す自由、を伝えようとするのかがよくわからなかった。定九郎、花魁、ポン太、それぞれをもっと丁寧に描いていれば、物語全体がよい意味で撓み、力を孕んだであろう。」
宮城谷昌光
男65歳
30「文章が有機的ではなく無機的であるがゆえに、ニュアンスがとぼしい。小説のニュアンスには、人が生きている色や様、あるいは人と人との関係の綾などがあらわれるものであるが、そこのところが単調である。」「二度とないその時、その時にしか生きられない人、という実態が、十全なかたちで読み手にとどかない。」
渡辺淳一
男77歳
12「根津の廓の内情はよく調べて書かれていて、そのかぎりでは読ませるが、そこからラストに絞り込まれた瞬間、作意が目立ちすぎて自然の感興を殺ぐ。」
浅田次郎
男59歳
29「開化物と遊里物という二つの複合は、すこぶる難度の高い設定と言えよう。しかし作者は、史料的説明をせず、最小限の登場人物を正確に描写して、みごとに一巻を物にした。ただし、ミステリー仕立てにしたというのは、いかがなものだろう。」
北方謙三
男63歳
24「明治初期の根津遊郭を扱って、まず思い切りのよさを感じさせた。それに『自由』という概念が重ね合わされているが、そこを掴み切る力はいまひとつで、風潮が描かれているだけではないか、と私には思えた。」「ただ、全体としては出色の維新ものであり、受賞作とすることに強い異議があったわけではない。」

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