2025年前期の芥川賞、安堂ホセと同時受賞の作品です。今回は単行本が手に入らず、図書館で借りた文藝春秋で読了。
なかなか、「難しい」作品で、ある意味プロの作家の選者や読後感想を挙げている一般の手練れの読み手さんたちの資質や好みが問われるような本であった。
昔の大学の文学部の研究室と、そこの教授や助手や院生たちが交わす会話、それぞれの研究者たちのテーマ、論文作成の悩みなどなど、50年前の自分がいた雰囲気が少し思い出される。ドイツ文学だって、英文学だって、教授たちはみな原文主義で、研究対象の作家にたいして、一字一句を大切にし、原典にあたり、実証的に、多くの論文を踏まえて書いていくという態度、悪く言えば重箱の隅をつつくような「方法」がまあ主流だったのだと思う。もちろん、それは対象の作品、作家への深い愛情と尊敬の念がもとにあったのだが。
主人公は大学教授でドイツ文学、ゲーテ研究の第一人者という設定である。その妻と同じく文学をやっている大学生(院生?)らしき一人娘、そして若いドイツ文学研究者などが周りを取り巻き、アカデミックな雰囲気で、会話も文学の話が主。感情的になることもなく知性にあふれた会話、しゃれた言い方、思いやりなどが前にでてきて、実に「古き良き上品な」家庭が描かれている。
家族で外食をし、紅茶を飲んでいたときに、ティーバッグの持ち手にあった世界名言集の一つがゲーテの言葉:
Love doesn't confuse everything, but mixes.
(愛はすべてを混乱させるのではなく、混ぜ合わせるのだ)
という言葉にとらわれてしまう。本当にゲーテの言葉なのか、どの本が出典なのか。そこからこの言葉探しの旅が始まる。主人公は若いころドイツ留学をしており、そのときの友人がよく口にした「ゲーテはすべてを言った」を思い出す。本当に言ったかどうか、というより、ゲーテならなんでも言っちゃってるんじゃない、というジョークのような言葉。でもゲーテは本当にそれを言ったのか。
ストーリーはこのゲーテの言葉を追いながら、様々なゲーテ研究や、同時代の人たちのゲーテ理解の様相を紹介するように進み、ファウストの中の箴言を引用しながら、主人公の人生観を語っているようにも見える。しかし、すべてはあまりにも衒学的で、深い議論というよりも「紹介的」で「雑多」な印象が否めない。むろん、それは作者の意図するところなのかもしれないが。
作者は今の時代にこの「古色蒼然」とした研究者ワールドをなにか「風刺」的に描こうという意図があったのか、いやそのような「悪意」は感じられないのである。素直な文章で皮肉な視線はどこにもない。文学研究一辺倒の主人公と、その教授を敬愛する人たちの幸福な日々と暖かい会話にあふれているのである。こんな家族いるわけない、と思うこともしばし、でも悪い感情を持つということでもないのであった。
ところで、途中、「盗作」の問題がでてくる。本文中で「第二のソーカル事件」という言葉がでてくるが、これ調べると結構面白い事件だった。全然知らなかった自分が恥ずかしい。
小説の最後で、この一家はヨーロッパに向かうことになる。そしてそこで件のゲーテの名言の秘密が明かされる。このあたりは、なかなか楽しい秘密だった。
なんと評価していいいか、不思議な小説であった。このテーマだともう一冊はないな。でもこの作者の知性とか知識量からして、きっと別のテーマで全く別の雰囲気の小説を書いてくれるのではないか、という期待もある。
最後に。雰囲気がちょっとだけ大江健三郎に似ているのである。とくに「レインツリー」以降の作品。大量の引用や個人の哲学者や文学者への傾倒が小説の大きな流れを作っていて、それが最後に現実の具体的な衝撃的事件によって、実証化される、そんな雰囲気。「ゲーテ」のほうはそれほど衝撃的事件は起こらないのだけど。大江的な「衒学手法?」を筆者は多少意識していたのでは。同時掲載のインタビューで、大江に影響を受けたと書いてあったのを読んで納得。
結論。誰にでもお勧めという小説ではないが、この「世界観」を読み続ける根気があれば、最後のほうできっと報われるでしょう。
以下、選考会での各委員の選評
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