『ハンチバック』市川沙央(文藝春秋) 2023年上半期芥川賞

市川さんが受賞されたときの報道が、やはり「障碍者」のイメージが前面にでていて、本を手に取るのを少しためらってしまって、そのままになっていた。差別的なものではなく、なんとなく社会的メッセージがあってそれを受け取るのがしんどい、みたいな。

馬鹿だった。これは本当に素晴らしい小説だったな。もちろん障碍が前面にでている、そのことについて意識的にたくさん書かれている。でもそれ以上のものが、あふれ出てくる。強い意思、強い反骨、はもちろんのこと、障碍者も健常者もなにも違いなく、心にあるもの精神にまとわりつくもの、生理的嫌悪と生理的好感と、生きている人間の普通の、しかも突き詰めた真実が、そこにあった。100ページに満たない小説で、2時間もかからず読み切れるはず。読みそびれていた方はぜひご一読を勧める。
釈迦のハンドルネームでエロ小説を書いて小遣い稼ぎをしている「私」。実はハンチバック(せむし)と呼ばれる障害を背負ってグループホームで暮らす独り身の40歳近い女性である。両親は裕福でなくなる前に莫大な遺産を残し、グループホームを丸ごと立ち上げ、娘の一生を託した。ホームの中で暮らすだけの「私」が、同居する人たち、介護や看護をする人たちと日常的に触れ合いながら、健常者社会からは隔離された社会の中で、関り、毒づき、攻撃され、憧れ、諦める、そうした心の動きを具象的で的確な言葉で繰り広げていく。ちょっとした事件もある、いや大した事件なのだが、「私」の精神性がしっかりしているので、不安なく読めた。
芥川賞選者の吉田修一の「とにかく小説が強い。一文が強いし、思いが強い。」「作者自身の人間的成熟が、この強さを、さらには毒気のあるユーモアを生んでいる。」とか、山田詠美「このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった。」という評価が、そのまま自分の評価である。見事な作品。多分多作ではないと思うのだが、これからも読み続けたい作家である。

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ところで、朝日新聞の2025年9月12日号に、市川さんが寄稿されていて、障碍者への視線と共生についてコメントされている。文中の「…クマ?」には爆笑してしまった。朝日新聞へ、そして社会に強く強く訴える市川さんの声、ぜひお読みください。

市川沙央女43歳×各選考委員 作家の群像へ
「ハンチバック」
短篇 90
年齢/枚数の説明
見方・注意点
選考委員評価行数評言
松浦寿輝
男69歳
39「わたしなどがこれまで遭遇したことも想像したこともなかった人生の姿がなまなましい文章で活写されており、読者の情動を激しく攪拌せずにおかない衝動的な内容になっている。」「ただ、フェラチオの挿話をはじめ、複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的な表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。」「(引用者注:「それは誠」と共に)△――という判断で選考会に臨んだ。」
小川洋子
女61歳
26「釈華が妊娠と中絶を望むのは、(引用者中略)自分より貧乏で不幸で頭の悪い子たちのレベルに追いつき、彼女らを見下したいのだ。」「しかし、田中の精液を飲み込んで死にかける姿には、常に生死の境に立たされている彼女に堆積した、底知れない疲労が透けて見える。」「もう一人の紗花が現れ、釈華の像が奥行きを増すラストには、内なる他者が、書く自由を手に入れ、飛翔する瞬間が刻まれている。」
奥泉光
男67歳
25「技術的配慮を超えたところで、力なるテクストとして屹立しているのはたしかで、本作の受賞には全く異論はない。」「たとえば、唐突に旧約聖書「エゼキエル書」からの引用が置かれて、これははずした方がよいのではと、テクストの均整の点からは考えられそうだけれど、作者には置くべきとの判断があったに違いなく、そうした直感に身を委ねて魅力あるテクストを紡ぎ出す作者の才には特別のものがあるのかもしれない。」
平野啓一郎
男48歳
32「高く評価した」「障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている。文体には知的な重層性があり、表現もよく練られていた。」「本書が突きつける問いの気魄は、読者に安易な返答を許さない。」
吉田修一
男54歳
43「とにかく小説が強い。一文が強いし、思いが強い。」「作者自身の人間的成熟が、この強さを、さらには毒気のあるユーモアを生んでいる。」「僕たち(私たち)は多様性をどこまで受け入れられるだろうか? 理解できるだろうか? などとい昨今の生ぬるい上から目線の問題提起を「ハンチバック」は小気味よく一蹴してくれる。」
島田雅彦
男62歳
36「「私」が繰り出す悪態のカデンツァは露悪を突き抜け、独特のヒューモアを醸し出し、悟りの境地にさえ達している。コトバも骨も屈折しているが、心は不屈だ。自発的服従者ばかりのこの国で不服従を貫く「私」の矜持に敬意を払う。」「エピローグでは、一人の小説家の誕生が仄めかされている。こうなったら、開き直って書いていくしかないという決意の表明と受け止めた。」
山田詠美
女64歳
20「文学的に稀有なTPOに恵まれたのはもちろん、長いこと読み続け、そして書き続けて来た人だけが到達出来た傑作だと思う。文章(特に比喩)がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった。」
川上弘美
女65歳
23「客観性ある描きよう、幾重にもおりたたまれているけれど確実に存在するユーモア、たくみな娯楽性。小説、というものの勘どころを、知悉している作者だと思いました。一番に推しました。」
堀江敏幸
男59歳
19「常識的な思考をかきまわす加速度のある言葉の運びは、主人公が置かれている状態によってのみ生まれたのではなく、小説が小説として生み落としたものだ。結末は全体を相対化する重要な装置であると同時に、書かれた人物の思考から外へはみ出した意思の光だと受け取りたい。」

 

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