「スガモプリズン」内海愛子(岩波新書)「日ソ戦」麻田雅文(中公新書)

図書館では読めそうにないので、珍しく購入。

 「スガモプリズン」は終戦直後、戦犯となった日本軍関係者を収容した施設。戦争を指揮したA級戦犯たちと、主に捕虜虐待などの罪に問われたBC級戦犯が収容されたが、この本では特にBC級戦犯たちについて多くのページを割いている。BC級戦犯は、日本国内だけでなくアジア各地の捕虜収容所で主に連合国側の捕虜を虐待した罪に問われたものが多く、各地で処刑されたものもいれば日本に送還されて巣鴨に入ったものもいたようだ。冤罪と思われるものもあったようだが、戦時のことゆえ、証明する手段もなく、また自信が収容所管理をしていたこと、当然人権配慮をする余地もなかったことは間違いなく、従容と刑に服するものが多かった。

スガモでは長期の収容ということもあり、また刑法犯罪とはまた違った受け止め方もあって、収容者はある程度の自治活動や文化活動などもゆるされていた。趣味の文化活動や芸能活動なども時間を区切って許されていたり、出所後のことを想定して、職業訓練的なものも行われていた。特筆すべきは「政治活動」も新聞への投書や所内での新聞発行なども含めて、認められていたようである。それにしても岸信介や笹川良平が釈放されている事実などを考えると、法の下の平等もまったく疑わしいところ。でも筆者はそこには深くつっこまない。ここで描きたいのは人間のこと、戦争裁判と人の心のありかたのことが大きいからか。

「プリズンの異邦人」として朝鮮人受刑者たちにも一章をあてられている。朝鮮併合後、植民地となった朝鮮から、軍属として日本軍に参加した朝鮮人たちは刑務官の仕事していたものも多かった。それが終戦後、二重の意味で苦しめられる。祖国を裏切った形になり、戻るべき故国もなくなり、スガモをでることを拒否するものもあった。これも悲劇の一つ。何より、戦後5年、10年と過ぎて人々の関心も薄れていく中で、受刑者の孤独は深まるばかりであった。犯罪者であっても、彼らはまた戦争の狂気に巻き込まれた「被害者」であり、歴史の中で悲惨な運命を担わされた悲劇のひとたちであった。なにより、戦後復興していく日本にあって、そこは取り残された静かな世界となってしまったのである。

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「日ソ戦」(中公新書)は2025年初頭に新書大賞の第2位となり、硬い本ながら10万部以上売れているとか。数年前に吉田裕の「日本軍兵士」を読み、戦争の実相を新しい資料を駆使しながら読み解いていくものとして、かなりの衝撃を受けた。この「日ソ戦」も、同様のある種スリリングな展開もあって、一気に読み通してしまった。

「日ソ戦」とは、第二次世界大戦末期、ソ連が日本と1941年に結んだ日ソ中立条約を破棄し、終戦直前の1945年8月に満州に侵攻してきて関東軍と交戦を開始した戦いである。満州とのちに樺太、千島列島への侵攻も含めわずか1か月にもならない期間に、200万もの兵力が戦いの場にでた。ソ連は終戦の8月15日以降にもどんどん侵攻を続け、日本軍も自衛のための戦いを続けざるをえなかった。やがて日本軍は武装解除され、将兵は捕虜となり、数十万人がソ連に送られ捕虜収容所に入れられて、強制労働をさせられる。一方、日本軍が去ったあとの満州や朝鮮、樺太などでは、膨大な数の民間人がソ連軍から暴行の限りを尽くされ、虐殺や婦女暴行、集団自決などを悲劇を生んだ。広島や長崎の地獄と同じほどの苦しみを一般人が受けたのである。

本書では、なぜソ連が終戦直前に参戦したか(むろん領土拡張をできるだけ兵を損傷するこことなくを狙っていた)、当時のスターリンとルーズベルト、トルーマンなどとのやりとりを詳述しながら、その狙いを推定している。著者の麻田氏の語り口調も淡々としながら、強くソ連の立ち回りを非難しつつ、また当時の大本営の情報収集の失敗と判断の甘さを指摘しており、なるほどこれはこうなるしかなかったのかと納得させられた。

日ソ戦の真相が手に取るようにわかる本だと思う。第二次世界大戦の最終盤のできごとである。それにしてもソ連がやったことは、今のロシアがウクライナにやっていることと全く変わりはないなあと嘆息してしまう。

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