「クレーの食卓」日本パウル・クレー協会(講談社) 2025/9/8

画家パウル・クレーの残したたくさんの日記、手紙、メモなどに、少ないけれど料理のレシピや当日何を食べたかなどの言及がある。彼の食へのこだわりに触れながら、一方でそのレシピを参考にして、実際に日本のクレー協会の人たちが料理を作ってみたらという企画の本。クレーの生涯を妻のリリーや息子フェリックスとのやりとりの中に描いていて、小さな伝記であり、小さなレシピ本であり、小さな画集となっている。
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右がニューヨーク美術館所蔵の「魚をめぐって」
左はそれを再現したもので、魚はカサゴ
本の背表紙は、フレッシュ・シャンピニオン
シャンピニオンはきのこの意味で、きのこのサラダ、マッシュルームをサラダで生で食べるというのは、どうなんだろう、普通なのか。
オーブンで焼いたリンゴ
ロシュティ じゃがいも、玉ねぎ、ベーコンなどを炒めてまとめたもの
クレーが晩年をすごしたスイスベルンのマーケットの様子
息子フェリックスのために作った人形たち
なかに手をいれられるようにできていて、息子のためによく人形劇をしてくれたとか

日本でもファンがたくさんいるパウロ・クレーだが、その生涯のことはそれほど知られていないのでは。特にドラマチックではないのだけれど、ちょっとびっくりしたこともいくつか。

1.クレーの両親は音楽家で、クレー自身もバイオリンを弾き、11歳でもう地元のオーケストラの団員になっているほどの腕前。両親とも音楽家になることを望んだが、母は同時にクレーの絵の才能にも気づいていて、画家の道を許してくれた。
2.妻のリリーはピアニストで、二人は音楽会で出会った。リリーの方が年上。リリーは富裕な家の出で両親はクレーとの結婚に反対した。リリーがピアノの家庭教師をして生活を支えた。売れない画家だったクレーが家事を一手に引き受けて、子育てもしたが、そのためになかなか絵に没頭できなかった時期も。
3.家庭でも友人宅でも、二人で演奏することがなんどもあった。バッハの作品が多かったとか。
4.クレーは60歳で病没するが、ヒトラーの前衛芸術への排斥をうけ、バウハウスでの教授生活をやめざるを得ず、やがてスイスに亡命することになった。
5.バウハウス時代とその前、ロシア人のカンディンスキーは深い親交があったが、戦争でカンディンスキーは帰国し分かれることになった。

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などなど、絵以外のことをあまり知らな方自分にとってはかなり面白い本で、なによりクレーの絵と彼に関する写真が豊富で素敵な装丁の本になっている。2009年初版の本。



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