井戸川射子の天才 『ここはとても速い川』と『この世の喜びよ』を読む

ふと手に取った井戸川射子の処女小説集「ここはとても遠い川」。野間文芸新人賞受賞作品なのだが、なかなかよかった。というか、まったく稀有の才能というべきものを見つけた気がした。

児童養護施設に暮らす少年の話である。小学校5年生の集(しゅう)と年下の少年ひじりのなんでもない日常。いじめとか生々しく毒々しいものはでてこない。平凡でそれでいて日々が冒険であるような少年の日々が、おさない少年の目をとおして描かれるから、記述はランダムで、思考は感覚的で、改行がなく流れていく文体。現代詩の一行といえるような文がが突然現れたり、そして子供たちの大阪弁が心地よい。美しい文章であると同時、描かれる世界そのものがなんていうんだろう、汚れない世界とでもいうべきか。最初の数ページの違和感さえ乗り切れば、この小説世界に浸っていられる、それは心地よい時間であるはず。
野間文芸新人賞受賞作品で、選考委員の川上弘美がこんなエピソードを語ったとか。
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新人賞を受賞した「ここはとても速い川」について、選考委員である川上弘美氏は、5人の選考委員全員が丸をつけたとし、「選考で推す言葉を言っているうちに思わず涙してしまった選考委員もいました。『保坂が泣いた!』と(笑い)」と選考委員の保坂和志氏が選考中に涙を流したことを明かした。
 井戸川さんは保坂氏が泣いたことについて聞かれ、「そんな風に読んでくださる人がいるというのが幸せだなと思いました」。すると、会見場の後ろで様子を見ていた保坂氏はたまらず立ち上がり、「感傷的な涙じゃないんだよ。心の揺れなのよ。泣ける話だから泣いたわけじゃない。勘違いしないで」と声を上げた。
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 『この世の喜びよ』は2022年下半期芥川賞受賞作品。(佐藤厚志の『荒地の家族』と同時受賞。)100ページ弱の中編。二人称で書かれた小説で、大きなスーパーの喪服売り場に勤める中年女性が主人公。売り場近くのフードコートに現れる女子中学生とのやりとりを中心に、同僚の女性やゲーセン勤めの青年、ゲーセン客のおじいさんなどとの交流が描かれるのだが、すべてこの女性の視点で、女性が自らの子育て時代と現在を行き来しながら、記憶が錯綜していく様子が、「意識の流れ」的な、ある意味脈絡がはっきりしない文体の中でぼんやりと描かれている。

ただならぬ何かがあるようでいて、でもあえて破綻を求めぬ「あなた」の穏やかさのオーラが世界を明るい方向に導いている、そんな感じの小説。


もともとは詩人で「する、されるユートピア」は処女詩集で
かつ自費出版で、中原中也賞をとった。処女小説が「ここはとても速い川」で野間文芸新人賞、二作目の「この世の喜びよ」で芥川賞、とすさまじい経歴!まだ小説は4冊しかだしていない。今後どうなるんだろうか。
才能は素晴らしいのだが、小説はストーリー重視のものではまったくないので、「売れ線」扱いはないだろうから、今後本人がどのような小説を書いていくか、ちょっとわからない。同じ現代詩から出発した川上未映子のようになるのか、同じような寡作の今村夏子のようになるのか。


芥川賞受賞時の選評は以下の通り:
井戸川射子女35歳×各選考委員 作家の群像へ
「この世の喜びよ」
短篇 114
年齢/枚数の説明
見方・注意点


選考委員評価行数評言
小川洋子
女60歳
40「(引用者注:「荒地の家族」と共に)丸をつけた。」「特異なのは、何も書かないままに、何かを書くという矛盾が、難なく成り立っている点にある。」「ごく当たり前に、“あなた”の過去と現在は一つに溶け合う。」「状況設定の特別さに頼らず、平凡を描写する言葉そのものの力で小説を成り立たせる。タイトルとは裏腹に、これは凄まじいことをやり遂げた作品ではないだろうか。」
平野啓一郎
男47歳
23「V・ウルフ風の「意識の流れ」を二人称で描くという難しい挑戦が成功している。」「「あなた」という穂賀への語りかけは、ヤング・ケアラーの少女への「あなた」へと転ずる最後の場面で、彼女の子育てを否定する、唯一の真の他者へと開かれる筈だったが、その対立性は曖昧に呑み込まれ、結局、全篇を貫く自己承認回路へと吸収されてしまう。」
島田雅彦
男61歳
13「何処か心地よい室内での日常的営みを大胆な筆致で描いたフェルメールを思い出させるが、技法は正攻法なので、完成度の高いエチュードという印象。」
山田詠美
女63歳
17「私は、この作品に、そこはかとない恐ろしさを感じたのだった。喪中の女の喪がようやく明けて、そこに福音が待ち受ける。けれど、それを一方的に伝えられるフードコートの少女は、どんな気持なんだろう。平易でありながら選び抜かれた言葉が、いっきに不穏さを増す瞬間。狭い世界。逃げ場はもうない。ねえ、これ「喜びホラー」とでも言うべき作品なんじゃない?」
川上弘美
女64歳
58「あらすじを説明しても、すぐには「すばらしい作品」とは予想できないような気がします。」「ところが、いったん読み始めるや、わたしはこの小説の只事の中に引きこまれ、快楽をおぼえ、いつまでも読み終えたくなくなってしまったのです。」「作品の持つメッセージ性や物語性などよりも、言葉が組み合わされることによって生まれる何か。(引用者中略)意味ではなく感情や感覚。それらを味わわせてくれるのが、井戸川射子の小説なのだと思います。第一に、強く推しました。」
吉田修一
男54歳
26「ショッピングセンターなどどこも似たようなものだと言われる。とすれば、全国に何千とあるその場所にも、きっと彼女や彼らがいる。と気づいた瞬間、日本のどこか特定の場所だと思っていた世界が細胞分裂するように数を増し、何千の主人公たちが立ち現れてくる。このマルチバースを平和な風景と見るべきか、そこに虚無を感じ取るべきか。」
奥泉光
男66歳
18「how(引用者注:どう書かれているのか)への意識と工夫の点で傑出していた。」「技法の洗練はともすれば世界を狭くしてしまう弊があると、自戒を込めつつ助言もしたいところだけれど、まずは受賞作たるに十分な技術の練磨があると考えた。」
松浦寿輝
男68歳
17「常同的な人物、常同的な場所、常同的な日々。それにこれほどの言葉を費やしてみせるミニマリズムの趣向をどう評価するか。最後の段落で甦ってくる風と光と水音の記憶にはうたれないでもないが、そこに「この世の喜び」というほど大仰なものが漲っているのかどうか。」
堀江敏幸
男59歳
21「大学生と社会人の娘を持つ主人公が、十五歳の少女との交流を通じて脈絡なくたどり直す記憶は、いつのまにか「あなた」だけのものでなくなっている。「あなた」が「あなた」に話すために思い出したという最後の情景は、いずれマスクを外して次の時代に向かう少女だけでなく、現在を生きるしかないすべての「あなた」に向けた、ささやかな光の希望になりえていると私は読んだ。」
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