和合亮一は福島の詩人で、高校の国語教師をしている。東日本大震災を詠んだ詩で、多くの人の共感を得た。何より、震災直後からツイッターに投稿し始めた言葉を多くの人が知っているだろう。例えばこんな一行「放射能が降っています。静かな静かな夜です。」
詩というより、日記のつぶやきに近い。それをまとめたものが「詩の礫」
詩の礫(つぶて)(一部略)
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本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。
放射能が降っています。静かな夜です。
ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。な
らば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。
この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信
じれば良いのか。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗
う水など無いのです。
私が暮らした南相馬市に物資が届いていないそうです。南相馬市に入りたくないという
理由だそうです。南相馬市を救って下さい。
私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の
遺体が流れ着きました。
このことに意味を求めるとするならば、それは事実を正視しようとする、その一時の静
けさに宿るものであり、それは意味ではなくむしろ無意味そのものの闇に近いのかもし
れない。
被災直後からつぶやき続けた、その声が自分に届いたのは、少し先のことだったなあと思い出す。それにしても、
放射能が降っています。静かな夜です。
この一行は、すさまじい喚起力を持つ言葉だった。
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やがてゆっくりと詩の形をとり「詩の黙礼」へとつながっていく。これは2011年6月15日発行、震災の3か月後に出版された詩集である。
春はやはり残酷なのかもしれない。気仙沼の避難所、母を亡くした子が、「ママ、会え
るといいですね」と帳面に落書きしたまま、眠っている。黙礼。涙。
春はやはり残酷なのかもしれない。牛が餓死している。三春の滝桜は、本年は誰も見に
来ないだろう。黙礼。
春よ、残酷な春に、何を思うのか。黙礼。
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クレーン車が、一つ一つ、漂流物をつかんでは、がれきの山へと捨てていく。掴んで捨
てられて掴んで捨てられていく私たちの暮らし。掴んで捨てられ、掴んで捨てられてい
く私たちの命。
たくさんの写真を撮る男たち、その間に入って私も写真を撮っている。だけど、どこか
らか、シャッターを押すたびに、怒鳴られている気がする。
黙礼。祈るしかない。見えない津波。
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詩の中で、「黙礼」が繰り返され、黙礼が加速していく。読者は、そのたびに、心の奥底で詩人とともに黙礼している。現実が詩を超えて、圧倒されるまま詩人は立ち尽くしている。このような形で、言葉にならないもの、言葉にするのを躊躇われるものに対し、詩人は黙礼するばかりである。
震災から五年たった2016年3月、詩人は詩を形として造形しなおす。それだけの時間がたったのだと思う。「昨日ヨリモ優シクナリタイ」は「詩」らしい形をとって、テーマも震災から少し「自由」になった。そうでなければならないと思う。
五年
はるか遠くの浜辺の
津波で残った
たった一本の松が
私やあなたの
庭に
街に
通りに
立っている
私もあなたも
あの波にさらされた
木の影に
立たされている
朝の太陽にしがみつき
真昼の時報にしがみつき
夜の食卓にしがみつき
生きている
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