「方舟を燃やす」角田光代(新潮社)

上記の帯にある「信じることの意味を問う傑作長編小説」というのは、ちょっと違うんじゃないかな。一気に読ませるけどね。

柳原飛馬と望月不三子という二人の主人公がいて、それぞれの少年期少女期から現在に至るまでを、数十ページずつを割いて、時代描写とともに交互に描いていく。
1967年生まれの飛馬は、上記の帯にあるような、ノストラダムスの大予言とか口裂け女とかコックリさんとか、さらにオウム真理教事件など、オカルトとカルトの時代の真ん中を生きてきた。多くの平均的な日本人と同じで、日常をよぎる時代の雰囲気は感じながら、それに大きな影響を受けることもなく生きてきた普通の日本人である。

一方戦後すぐに生まれた不三子は、柳原より20歳くらい上の設定だろうか。平凡で貧しい家庭で育ち、高卒で就職し結婚、専業主婦となり、家事と子育ての人生だった。料理教室に通う中で、自然食とくに玄米食を中心とするマイクロビオテックの影響を受けるようになり、嫌がっている家族を無理やり「健康」「安全」な食生活をさせようとして、子供とくに娘との関係が次第に悪化していく。彼女のこの傾向は、ワクチン接種にも表れて、子供のワクチンを忌避しようとする中で、夫との関係も悪化していく。結婚生活は破綻はしないが、お互いの信頼関係は薄れていくように描写されている。彼女は飛馬と違って、時代の最先端のカルト、オカルトブームはほとんど影響を受けていない。
この二人の生活が交互に描かれる第一部では、二人の接点はなく、それぞれの生き方が描写されるだけである。

第二部でようやく現代に突入。飛馬は区役所の職員で子ども食堂に関わっており、偶然そこで不三子が手伝うことになる。特に自然食に関する不三子の知識はこの食堂でも重宝されるようになり、夫をなくしこどもとも疎遠になっていく不三子にとって、小さな生きがいになっていく。このとき柳原は50代、望月は70くらいか、もちろん恋愛関係にはならない。

時代は新型コロナのはしりのころ。食堂の運営にも大きな影響を与え始めた。このころ
一人きりで子ども食堂にやってくるようになった小さい女の子をめぐって、柳原と望月の関係は深まっていく。一方で新型コロナによる社会の萎縮や、悪意あるSNSなどの環境悪化などに、二人とも翻弄されていく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
誰も幸せにならない、ハッピイエンドのない小説である。人を信じて、結局は疎まれて、報われない。ひどい仕打ちをうけるわけではないので、悲劇じゃないんだけど、いつまでも満たされない気持ちになってしまう。後半は、子ども食堂に現れた女の子とのエピソードを中心にストーリーを追っていった。なにかこの不幸で貧しい女の子に救いがもたらされるはずと…。でも結局「救い」はやってこなかったなあ…自分だけの感想かもしれないが。
みずからの信念に基づいて、人のために生きてきたつもりなのに、それが報われないこともある。生きる実感とはなんなのか、そんなことを思った。


コメント