「地図と拳」小川哲(集英社)

 2023年前期の直木賞作品「地図と拳」を読了。625ページという驚異の「鈍器本」である。(鈍器本という言葉は下記の林真理子の選評で初めて知った。分厚くて鈍器にもなりそうな本のこと。この前読んだ島田雅彦の「パンとサーカス」もきっと鈍器本だ。)そしてやはり弩級の読みごたえをもたらしてくれたなかなかのエンターテインメントだった。

小説の舞台は中国満州。日露戦争後から日中戦争、大東亜戦争そして敗戦に至る激動の時代に満州に理想の都市を作り上げようとする人たちとそれを阻止しようとする中国八路軍たち、日本政府や満鉄の思惑、軍部の動きが複雑に絡み合い、お互いの謀略と殺戮が渦巻くドラマであった。
実に様々な登場人物が次々と現れる。理想の都市「李家鎮」を作ろうとする元通訳の細川や、建築や土木工学などに詳しい日本人技師、鉄道網開発の任を持っていたロシア人神父、不思議な体術と千里眼を持つ「孫悟空」、天才的な泥棒、強靭な憲兵、踊り子であり八路軍の一員である若い女など、それぞれが見事に肉体を持った存在として活写されている。ある種の群像劇であり、それぞれのドラマをその内側に内包していた美しい理想都市「李家鎮」がついに破壊され燃え上がり、すべてが消えていく。この映像的な場面が最も印象的で、小説全体のイメージだともいえる。
面白かった。最初の100ページを通過したあたりから、物語は一気に勢いを増す。そのまま読み続けて3日で読了。充実した読書時間がもてた。

難をほんの少しだけ挙げると:登場人物の一覧表はぜひ欲しい。抜群の記憶力がないとまずこれは誰だったか思い出せないよ。もう一つ、史書でなくフィクションなのだから、「孫悟空」をもう少し活躍させるなりして、大いなるエンディングに向けてドラマタイズしてもらってもよかったかな。まあ、これはこっちの勝手な好みだが。
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以下は直木賞選考会議での委員の選評

小川哲男36歳×各選考委員 作家の群像へ
『地図と拳』
長篇 1112
年齢/枚数の説明
見方・注意点
選考委員評価行数評言
浅田次郎
男71歳
25「近年の候補作の中では珍しく、というよりこのごろの小説には珍しく、明確なテーマに沿って書かれていた。」「地図や建築といった素朴で始源的な科学が、先進の科学たる戦争に巻き込まれた場合、どのようなドラマが想定できるのか、と解析するなら、本書は空想科学小説の骨格を備えているとも言える。」「すこぶる多彩な評価の可能な、堂々たる受賞であろう。」
北方謙三
男75歳
24「満洲が描かれていて、一先行作品を思い浮かべたりしながら、読みはじめた。しかし、撃たれても死なない男が出てきたあたりで、小説性が全開になり、物語の坩堝に放りこまれた。面白い、というのが最も適当な感想である。」「満洲も時代も、ある面では小説の道具としてしまうほどの腕力は、圧巻ですらあった。」
宮部みゆき
女62歳
56「最初の投票から満票を得た『地図と拳』には、選評でも様々な角度から最大の賛辞が寄せられることでしょう。」「分厚くて厳格で手強そうに見える『地図と拳』は、(引用者中略)好き勝手なキャスティングを楽しめるほどに、登場人物たちがキャラ立ちしているキャラクター小説でもあるのです。」
高村薫
女69歳
17「大量の歴史資料に基づいた大きな物語世界といい、硬軟とり混ぜた人間描写の軽快さといい、新味はどこにもないオーソドックスのなかのオーソドックスではあるが、エンターテインメントとして間然するところがない。」
伊集院静
男72歳
39「タイトルが語っているように、氏の小説に対する実直さを感じた。」「作品の中心になっている満洲国については、今も日本人の幻想の国家として息づいていることへの配慮がこれでいいのかと思った。」「「燃える土」「燃えない土」という表現は大変に興味深かった。選考委員からこれほど多くの支持を得たのだから、何かがあるのだろう。」
三浦しをん
女46歳
31「推した。」「戦争を知らない世代だからこそ、戦争の実相について考え、想像力を発揮することがいかに大切か、作者のなみなみならぬ覚悟を受け止めた。」「かといって、当然ながら説教でも教訓でもなく、読んでおもしろい小説なのが本作のいいところで、謎の格言やユーモアあふれる描写(「安井は両手が骨になるほど拍手をした」など)が随所にあり、爆笑した。(引用者中略)爆笑した直後、「つまり、かれらと私になにもちがいはないということだ」と自身を省みた。」
林真理子
女68歳
25「鈍器本は魔力を持っていなくてはならない。読者を本の世界にひきずり込み、時間を忘れさせる。この本にはその魔力が薄かった。時々学術論文のような記述が入り、こちらを萎させる。そんなわけで満点は差し上げられなかったが、最後は賛成票を投じた。」
角田光代
女55歳
36「圧倒された。」「小説が描き出すのは戦争の正体ではなく、そこに向かわざるを得ない時代と、その時代に生きる人々である。」「緻密なエピソードの集積を読むことは、見たことのない建築物ができあがるのを見守るような興奮があった。人の作り出すもっともうつくしきものともっとも醜いものを、非常にあたらしい手法で描き出した小説だと思う。」
桐野夏生
女71歳
37「架空の人物たちが織りなすエピソードが秀逸である。ガルシア=マルケス風のトンデモな逸話があるかと思えば、オタクを極める人物もおり、純朴な少年の物語もある。大勢の登場人物のエピソードの集積が物語を作り、時代を、そして満洲という土地の魔力をも語ってゆく。」「冒頭に登場する高木と通訳の細川、ロシア人宣教師のクラスニコフと通訳の林が「倫理」ともいうべき柱となることで背骨が通り、物語はさらに力強さを増した。圧倒的傑作である。」


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