ふとしたきっかけで、あるロシア語学校に通うことになった高校生の黒田君。代々木の雑居ビルにあった「ミール・ロシア語研究所」という小さな学校だった。
東一夫、東多喜子の作った「ミール」は、暗唱と音読と発音を徹底的に鍛える独自の教育理念を持った学校だった。厳しい先生、徹底的に生徒に付き合う先生、本物のロシア語を短時間で身につけさせるという信念で運営されていた学校は、筆者黒田君にとって、人生を決定づける場所だった。
高校をでたあといったんは普通の大学に進学したが、その後上智大学ロシア語学科で学び、さらに東京大学の大学院でロシア語を学んだ。彼のロシア語とその後のスラブ系の言語学習は全て、この「ミール」の教えに基づいている。
すぐれた語学学習の指針であり、同時に楽しい青春記でもある。でてくるエピソード、でてくる登場人物は、全てロシア語関係者、そのほとんどがミールで学んだ人か、ミールで教えた人だけ。ひたすらにロシア語関係の話だけ。それでも、これもまた素晴らしい青春であり、本物の人の人生だなあと思った。
語学学習で何が大切かは、どの程度それを学習者が必要としているか、そのモチベーション次第なのだが、ミールに来るような人なら是非ともロシア語をマスターしたい、完ぺきな会話ができるようになりたいとある程度必死な動機がある人たち。それがあれば、ミールがとった「方法」は極めて有効だし、辛いけれど確実に力が付くやり方だと思った。
学校英語はどうか。ミールの方法は活かせるか。一クラス40人規模で教えるなら、それはかなり難しいだろう。何より生徒の学習動機が様々で、必死に学びたいという気持ちは生徒もまずもっていないのではないか。語学学習における厳しさや繰り返しの重要性は今は理解されない時代なので、こうしたやり方はなかなか難しい。
一方で、文科省と各県教委が求める「コミュニカティブ」な能力が、プレゼンテーションをしたりディベートをしたりといった発信型の教え方も、それを徹底できれば、また時間をかけることができれば効果的なのだが、多人数の一斉授業で、さらに即効的な効果を求められる環境では、難しいのではないか。
少なくとも、ミールでとっていた次のことは大事だと思う。
1)音声を重視すること。繰り返し音読し、音の間違いはできるだけ訂正する。
2)英文をたくさん暗唱させる。
3)予習を徹底させる。こまめに単語テスト、例文テスト、作文テストをして、記憶の定着をめざす。
こうした地味な指導は本当は語学学習の基本だ。まず教える側が完璧に授業をデザインし、徹底的に生徒につきあい、1,2,3などのルーティンを授業の中に確立して、そうしたところは英語で進める、といったところからだろうか。それにしても語学で40人は厳しいだろうな。
いい本だった。あっという間に読める本で、読んだあとは、ミールのような学校があったら通ってみたいと思わせる。でも残念ながらミールは2013年に閉校してしまったのである。東一雄さんはなくなり、奥様の東多喜子さんも2022年に亡くなられたとか。
作者の黒田龍之介さんの青春期、そしてロシア語にささげた半生の思いが、そのまま描かれていて、とても熱い。いい本に巡り合えた。
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閑話休題。前日読んだ「不機嫌な英語たち」で、吉原さんは親の海外転勤という環境変化で、「バイリンガル環境」を手に入れた。多少のやる気と頭があれば、たいていの人はバイリンガルになることができる。その環境されあれば、誰でも二か国語を自然に操れるほどに、人間の脳は優秀で、それは頭の良さとはまた違った、人間全般が持つ脳の働きの一つと言える。日本で英語を完璧に習得するには、「バイリンガル的環境」をここででどうやって作るかが問題で、そこで英語学習者と英語指導者は悩むのである。ミールと黒田さんの話はその答えの一つともいえる。
ところで。AI技術が応用される範囲は限りなく広いが、当然、翻訳や通訳の世界でもAIはかなりのことをやってくれると予測する。そのとき、語学学習はどのような位置づけになるのか。しゃべるはしから通訳してくれる機械があれば、相手とのコミュニケーションという目的は果たせるだろう。それに近いものがいずれ生まれるはず。そのとき外国語を学ぶという行為はかなり趣味的な位置づけになるのだろうか。まあそれでもいいなと思う。
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