追悼 大江健三郎 ④(最終) 「雨の木レインツリー」を聴く女たち


1982年の連作短編集、読売文学賞受賞。おさめられている短編は、

頭のいい「雨の木」/「雨の木」を聴く女たち/「雨の木」の首吊り男/さかさまに立つ「雨の木」/泳ぐ男――水の中の「雨の木」の5編。

最後の「水の中の…」を除けば、いずれも海外を舞台にした作品で、大江が実際に客員教授をしていたメキシコや、講演などを行ったハワイでの出来事という「想定」で書かれている。統一したテーマの「レインツリー」とは、「頭のいい『雨の木』」の中で、登場人物のアガーテがこんな風に説明する:

「「雨の木」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さい葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう」
インドボダイジュという話もでてくるが必ずしもそれでもないような。菩提樹だとしたら30mにもなる高木で大きな葉をもつ木、イチジクの仲間でもある。

さて、この連作、イメージは「レインツリー」にまとめらえるかと言えばそうでもない。統一したテーマのメタファーとして「レインツリー」があるのかもしれないが、大江の意図はあまり明確には記されていない。(意図を読み取られることを忌避している風))

描かれているのは、人の持つ心の闇である。穏やかな何気ない会話を語り掛ける人が、その言葉の奥に隠した暗い情念のようなもの。愛であり、憎しみであり、揶揄であり、譴責であり、関わればかかわるだけ深みにはまっていく、そういう人間関係に不条理にとらわれる主人公。
いつも「死」の影がある。作品の根底に。それを包むように、「暴力」と「性」があり、それと対峙するのは無論「善」であり、「無垢」なのだが、イーヨーのでてこない本作のような作品では、もう誰もこの死の影に太刀打ちできない。それにしても大江は昔から「暴力」と「性」の描き方が、きつい。全然それは好きになれないが、それでも自分はわかる。それは四国の山奥で育った少年の原風景みたいなもので、「芽むしり仔撃ち」の世界をずっとひきずってきているとしかいえない。「日常生活の冒険」にしても、「個人的な体験」にしても、「万延元年のフットボール」にしても、初期から中期にかけて、根底で共通している大江的世界だ。

普通の読者にとって面白いのは「泳ぐ男」くらいか。これはレインツリーの暗喩の外側にある小説で、いってみればノーマルな小説。普通の人間がどんどん凶悪になっていく、大江らしい作品でストーリー性も明瞭。他の作品は連作的なもので、レインツリーにまつわる小品を配置したような感じ。大江が好きでなければ、読み続けられないのではないか。

大江はこれで一応おしまいにしようと思いながら、一冊読み終わるたびに、もう一つ読んでみるかなと気持ちになる。さて、もう一冊だとしたらなんだろう。


 

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