追悼③ 大江をめぐる小さなお話 

 


以下は大江に関するちょっと面白い話。ネット上からの引用などもあるので、真偽は不明なところもあります。

・大江が亡くなったという報道の翌日、NHKで、大江の高校時代の原稿(詩)が見つかったという小さいニュースが流れていた。愛媛県の内子高校となっていたので、あれ?と思った。大江は松山東高校の出身だったはず。ウィキで見たら、高校1年は内子高校で、いじめにあい、2年次の松山東高校に転校したとあった。内子高校の校長さんがでてたけど、このウィキの記事、どう思うんだろうと、他人事ながら心配。

・伊丹十三と高校時代同じ学年で、一緒に行動していたこと。当時、太宰がはやっていて、伊丹の言葉によれば:

「その頃は太宰治がたいそうな人気で、若者たちは太宰治の文体を真似、何かといえば『なんてね』とか『なんちゃって』といった言葉を文末につけた『太宰語』をしゃべっていたわけですが、そのような風潮が猖獗を極めたある日、大江君が非常に気色ばんで『ナンテネというのはもう止そうよ。そういうしゃべり方で、意味のあることを話すことはできないと思う』と言い出したのです。一同、大江君のこの一言で憑き物が落ちたようになり・・・・・

考えてみれば大江君の『曖昧な日本』との闘い、すなわち、日本人にしかわからない日本語の特殊性に寄り掛かるような閉ざされたコミュニケーションを排し・・・・」

真摯で切れのある高校時代を彷彿とさせるエピソード。ちなみに大江はその後伊丹の妹と結婚している。

・太宰と言えば、「人生の親戚」には作家津島祐子の家のことももしかしたら関係があるのではと、全小説集の解説で尾崎真理子が触れている(尾崎は文芸評論家で、谷川俊太郎との共著『詩人なんて呼ばれて』がある。)津島は一歳のときに父太宰治を亡くし、13歳で障害を持つ兄を亡くし、やがて結婚したあと小学生の息子を亡くしている。特に息子の死によって受けた痛手を乗り越えるのに苦労された。大江は彼女と知己を得ており、互いに励ましあった間柄だったようだ。直接ではないにしても人生の親戚と深く切り結ぶエピソード。

以下、ウィキペディアによれば、山口昌男との親交があり、

…山口は1970年代に「中心と周縁」理論を提唱し[150]、大江はその大きな影響を受けた(ただし、山口が「中心と周縁」理論として提示したことは大江はすでに『万延元年のフットボール』に書き込んでいるのではないかという説をニューアカデミズムの論者浅田彰、柄谷行人らは主張している。

とある。また、

「同時代の大江健三郎」(群像2018年8月号)と題された大江と同世代の筒井康隆×蓮實重彦による対談において、筒井は「1950年代から2010年代まで、ずっと大江健三郎の時代だった」と評している。蓮實は「大江さんが作家として一番偉いと思っている」と述べた。

など。


*以下、随時追加するかもしれない。

コメント

  1. 大江健三郎の現在をずっと気にしてましたが、ついに訃報を聞く事になり残念至極です。お若い時の飲酒癖とか考えましたら、良く歳を重ねられたとも思うのですが、、
    代表作はすべて読んでいるつもりですが、講談社の全小説15巻は手にとっていません。
    今の時代に彼の声を聞きたかったとつくづく思われてました。昔、東北大の萩ホールで講演を聴きました。年月日が分かれば日記に内容を記しているはずですが、如何せん忘失してしまいました。只々御冥福を祈るばかりです。カイエ

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    1. カイエさんも大江を読んでこられましたか。私は後期の作品からは離れてしまいましたが、それでも大江には深い畏敬の念を抱いています。ブログタイトルも大江の作品からいただいています。高校時代に読み続けていた頃、高二でしたが、三島が自決し、大江と三島とについて、若い担任の先生や級友と議論したことを思い出します。
      大江から離れたのは端的にもっと気になる作家たちが現れたから。でもいま改めて、大江の偉大さを感じているところです。萩ホールの日記がみつかったら、またおしらせくださいね😁

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