追悼 大江健三郎 ① 「静かな生活」を読む

大江健三郎が亡くなった…
もう新作は書いていなかったので、やがてはそんなときがくるだろうとは思っていた。そもそも、このところ数十年も大江の本を読んでいなかったのに。喪失感とも少し違う、一つの時代の終わりの寂しさのようなものを感じているところ。

大江を追悼して、「静かな生活」を読み返す。
これは講談社の文芸文庫版で、装丁は前にこのブログでもとりあげた菊地信義さん。1995年9月10日第一刷の文庫で、「静かな生活」そのものの発表は1990年である。
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大江の息子、光くんがすでに養護学校を卒業したころに書かれたもの。作品中でも福祉作業所に通うイーヨーの姿が描かれる。作家の父がアメリカに長期出張し母親がそれについていくことになる。日本にのこされた、イーヨーと妹のあーちゃん(大学生)と予備校生の弟のおーくんの三人暮らしが始まるのだが、いつものように次々と難題が降りかかり、事件に巻き込まれていく。イーヨーは知的障害があるのだが、優しく穏やかで音楽の才能を持ち、家族を明るく照らしてくれる存在。イーヨーを妹と弟が守り、イーヨーがまた二人の守護神的な役目を果たす。あーちゃんの語りで物語は進む。

差別やむき出しの暴力や、性描写、大江らしい細部がたくさん描かれるが、最終的に「魂の救済」へと物語は大きく展開していく。三人の主役たちは、それぞれ個性が際立っていて、ひたむきで真面目で負けず嫌いで行動派のあーちゃん、冷静沈着で少しツンデレぽい賢い弟のおーくん、まるでトリックスターのように不思議な言葉、不思議な行動をしながら、周辺にいて本質を照らし出す存在のイーヨー。三人を見守る父の友人の重藤さん。不穏で邪悪な新井さん。それぞれが個性が際立って、ああこれならどんな事件が起ころうと、それはきっと一つの「形」の中に納まるんだろうなと思わせる、見事な「小説としての造形」がある。

そうだ、大江って昔からこんな風な小説を書いてきた。四国の深い森の中に育ち、一族の長老の叡智を指針とし、人間の奥底にひそむ悪や恐怖や欲望や、あらゆるネガティブなものとの対決を、無垢の小さいきものが救ってくれる。そのような、祈りに満ちた小説を書く人だと思っていた。
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作中、これも大江の特徴だが、彼が関心を持つ作家の話が何度もでてくる。アイルランドの詩人イエーツやイギリスのウイリアム・ブレイクの宗教的な詩が、「救済」のイメージと並行しながら使われていく。
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そうだったのかと改めて思い出す。自分のことだ。私も1970年代に大学生活を送り、卒論はイエーツだった。そして英文学を詩を中心に学びながら一番のお気に入りの詩人は、ロマン派の巨人のワーズワースやコーリッジやキーツではなく、ウィリアム・ブレイクだったことを思い出した。大江が1990年に出した本にでてくる二人の英詩人をその10数年前に、自分は読んでいたことにちょっと感慨。もちろん自分はほぼ半可通でしかなかったのだが、大江がそれを読み解いてくれたような気がした。
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大江について、もう一つ大事な思い出がある。それは次回に。もう一つ作品を読んでから、ゆっくり思い出していきたい。時間はたくさんあって、もう大江はなくなってしまって、急いで書く必要もないこと。何よりそれは大切な思い出なので。
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このあと読む作品は「人生の親戚」。もう内容は覚えていない。覚えているのは

この作品ほど心打たれ、心打ち震えた小説はなかった

という記憶だけだ…今読むとどうなのか、少し不安でもあり、楽しみでもある。

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