川上弘美「大きな鳥にさらわれないように」 2016年4月発行

一気呵成に読み切った。素晴らしい作品だった。

「蛇を踏む」や「センセイの鞄」の川上弘美の長編小説。テーマはだいぶSF寄りだが、川上の繊細で優しい文体が描き出す不思議な世界は、それ自体魅力にあふれ読書の喜びをもたらしてくれる。この作品で2016年の泉鏡花文学賞をとっている。

16の章で構成され、それぞれが独立した物語群でありながら、全体が一つの大きな叙事詩ともいうべき大きな物語になっている。ストーリーは人類の創世記でもあり、終末の物語でもある。悲しい寂寥感が通奏に流れていて、ああ、この人たちは一体何者だ、ここはどんな世界なんだろうと思いながら、次々とページをめくり、次々と章を読み継ぐ。やがて薄明の中からゆっくりと悲劇の本体が現れてくる。

例えば、第一章「形見。」うすものを来て水浴びをする人たちの姿が、霧の中の世界のように描かれている。いったいどこなのか、何をしているのか。提示される世界の、この静けさはなんだろう。すぐに次の章が始まる。

第二章「水仙」の出だしは「今日、私が来た。」だ。「私」のところに「私が来た」って、どういうこと?この本では「私」は何人もいるし、「母」も何人もいる。それぞれが本物の人間なのか、そうでないのか、そもそも人間なのかどうか。さらに「大きな母」とうい特別な存在もいる。クローンという言葉も早くからでてくるのだが、どれがどのクローンかも大した重要性はないようだ。

いったいこれは何なのか。短い章に次々と登場人物が交代し、場所が移り変わり、少しずつ全体像があきらかになる。そうか、これは一人一人の物語ではなく、共通の記憶を持つ「人類」のようなものたちの、神話的物語なのか、というふうに思えてくる。

読みながら、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」をちょっと思い出す。多和田葉子の異種婚の話のことをちょっと思い出す。全然似てはいないのだが、「不穏さ」は同じくらいあって、でもなぜか「不吉」な感じはしないのである。

川上は最後のほうの章で、全体像を提示するのだが、その大きな物語それ自体は、新奇な仕掛けでもない。この小説の真骨頂は、描かれる登場人物の日常の「やわらかな確かさ」とでもいうもの。登場人物ひとりひとりが持つ「違和感」と「孤独」が見事にそこに描かれていて、大きな悲しみの小説となっているという点である。

苦手な人はいるかもしれない。でも多分、先へ先へと読み進みたくなると思う。


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