「武器ではなく命の水をおくりたい 中村哲医師の生き方」宮田律(平凡社)


 イスラム研究者で、現代イスラム研究センター理事長の宮田律さんが描く、中村哲の生涯。子供でも読めるようにルビがふってあり、やや大きな文字で書かれている。伝記ではなく、主に中村哲のアフガニスタンでの活動に焦点をあてて、その意義をわかりやすく解説している本。

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カンダハルで若者のグループがいる。一人は国軍で一人はタリバン、生きるため報酬を得る、どちらを選ぶかは報酬の多寡による。二人は友達である。中村がめざしたのは、戦争によらないで人々に生きる手段を与えることだった。

中村は医師としてアフガニスタンに入り、感染症の治療にあたったが、アフガニスタンの水事情と衛生環境を変えなければ治療は難しいと悟り、現地の人たちに清潔な水を与えるためあちこちに井戸を掘った。その数1600か所。やがて、ヒマラヤを源流とする河川を灌漑に使うため、機械にたよらず日本の古式の灌漑方法である、斜めに堰を作る山田堰や、補強のための石を詰め鉄線で包んだ蛇篭などを教え、堤防に柳を植えるなどの堤防の補強を教えた。

土木学を独習して、現地にあう方法を編み出して実践した。なにより日本などの援助がなくなってもアフガン人自身が自分たちで維持できるように配慮された支援方法であった。このペシャワール会の灌漑方法に対して、アフガン復興の鍵として評価され、2018年にアフガン政府から叙勲を受けている。

アフガニスタンをはじめ南アジアに入った日本人は中村が初めてではない。宮田さんは、中村以外にも、こうした支援を行った日本人を紹介している。

1935年に農業技師尾崎三雄がみかん柑橘類などの栽培を教えにはいった。遠山正瑛はモンゴル、エンゴペイ砂漠の緑化でポプラ100万本が300万本に増えた。2000年頃の話。杉山龍丸はかつての陸軍軍人でインドパキスタンにユーカリの木を植えた人。若い伊藤和也はアフガニスタンに菜の花とサツマイモを植え、こんなに甘いイモがあるとはと感激された。「菜の花畑の笑顔と銃弾・アフガンに捧げた青春」の本も紹介されている。海外支援はただお金をばらまくのではなく、ただ食べ物を与えるのではなく、現地の人が自立できる形で行われなければならい。

中村哲は2019年にイスラム武装勢力によって銃撃され亡くなった。政情不安なアフガニスタンで活動するということはいつも死のリスクを負っていること。中村はそれを十分に知っていた。そのうえでの活動であった。

偉大な日本人の一人がなくなったこと、四年前のこの出来事を今も哀しみをもって思い出す。

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