岡井隆「暮れてゆくバッハ」書肆侃侃房

2020に亡くなった岡井隆。塚本邦雄、寺山修司と並ぶ戦後前衛短歌のリーダーの一人として知られる方。格調高い調べは、口語でもその美しい響きを失わない。亡くなったのは92歳で、「暮れてゆくバッハ」は2015年の出版。最晩年の一冊であった。


この不思議なタイトルは次の一首から:

   ヨハン・セバスチャン・バッハの小川暮れゆきて水の響きの高まるころだ 

と書いても、これを解説するものはない。ただ、「暮れてゆくバッハ」を想像するのみ。ちなみにドイツ語ではバッハは「小川」の意味もある。

この本は中ほどに岡井の自筆の「挿絵」イラストが載っていて、短歌やちょっとした一言も添えられていて、それがまたとてもとても良い。字も美しい。



斎藤茂吉にささげる歌もあって、こんな前書きもついている

        茂吉の本歌はみんな知ってるよね。

    ただ一つ残しておいた白桃を今食べ終わったみたいな気分

茂吉の本歌ってなんだと思って調べたら

    ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり

でした。茂吉は本当にモモを食べたんだろうが、岡井は食べたような気分で、これはこの時期の入院手術のあとの気持ちを謳っているのだと思う。

岡井隆は「アララギ」から出発した歌人で、茂吉についての歌論も書いている。

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その他、岡井の代表的な短歌を少し:

   灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ

   眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す

   桜なんか勝手に咲けよまだすこし怨念がある昨日の夢に

   母の内に暗くひろがる原野ありてそこ行くときのわれ鉛の兵

   婚(まぐあひ)にいたらぬ愛を濃緑のブロッコリイにたぐへてぞ恋ふ

とてもとても耽美的ですが、「暮れていくバッハ」にはこの巧緻はなくなっているような。

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