好きな女性作家川上弘美が編んだ「幸田文」の随筆集、読み始めると、あれよあれよというま。なんでこの作家を読んでこなかったのかなと思ったり、いやいや年をとってから読んでよかったのかもとも思う。
第一部は幼いころから家事をしつけられる少女期、女学校時代、そして結婚をした後、出戻りし、最後まで父の面倒を見た、幸田文の半生を描いた随筆を集めたもの。いずれも父幸田露伴との思い出を中心に描かれる。
露伴は先妻に死なれ後妻をとったが、いまひとつ妻との関係はよくなく、子供たちの教育はもっぱら彼が行ったようだ。幸田文も幼いころから漢文の素読をやらされ、雑巾がけ、はたきがけ、炊事その他家事一切を父に仕込まれた。厳しくそして含蓄ある教えとそれに反発する娘との丁々発止のやりとり、たいていは忸怩たる思いで娘が引くのだが、嫌みの一つも言いたくなる風情の蓮っ葉で元気な文の姿が、勢いのある弾むような文体で描かれる。
露伴が娘に今でいう性教育を行う話などこれはあははと笑える見事な教えでいまどきの親がよむとほっとするもの。文が女学校時代のほのかな「S」の感情とか、とってもいい。そして、父露伴との別れを描いた「終焉」は、胸いっぱいになる話。長い間病気で寝込み、文がずっと一人で看病を続けた。
父の知人と一緒に父の体をさする。さすりながら 「痩せましたね」「むむ、・・・」と父が答える。「こうしてあっちへ向けてもらったりこっちへ向けてもらったりしているうちに、自然のときが来る」文は言葉もなく、「おとうさん、そうなりますか」「なる」
「お父さん、えらいなあ」「なぜさ」「だってみんなまだそう思わない」
「そのくらいのことァおまえ…」といった。見つめたなりで私は声を放って泣いた。
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いよいよというそのとき、父は「いいかい」といった。つめたい手だった。重ねて「お前はいいかい」と訊かれた。文は心を決めるのである。「はい、よろしゅうございます」 「じゃあ、おれはもう死んじゃうよ」「はい」。未来永劫の別れ。
兄弟はみんな若くして亡くなり、父一人子一人の露伴と文。長く二人で暮らしてきたその最後の言葉であった。幸田は母を亡くし、姉を亡くし、弟を亡くし、そして父を亡くした。その後、一人で書き始めた。幸田には娘がいて、孫もいて、それぞれが文筆の生業としている。
精選女性随筆集「幸田文」 川上弘美選 (文芸春秋)
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